「つぶやき」のオリジナリティ&リアリティ

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しばらくご無沙汰してしまった。あっという間に最後のつぶやき(ブログ)から、1年近くがたってしまったわけだが、これも私の生来のナマケモノとしての性であるから止むを得ない。
ところで、少々癪に障ることは、SNSのツイッターなどをで「つぶやき」という言葉が、ネット社会になって、手あかのついた言葉として流布してしまっているわけだが、私などは、自慢ではないが(いや、自慢だな、、、。)30年近く前から、己の心情を語り明かす言葉として用いていた言葉なのだ。いまでは、当たり前のように使われているが、当時は、パソコンなど庶民には高根の花で、とてもそのような状況ではなかった。ただ私の場合は、新人気鋭の彫刻家として少々光が当たっていて、神奈川県の地方紙(経済新聞)から声がかかって、月一のエッセイを書くことになり、10ヶ月間、思うままに呟いたわけである。
元々、受けを狙って書いているわけでもないから、自由で気ままである。そう結局私は、自由ということがテーマで、これは作品を作る時の基本的姿勢と全く同じなのである。つまり不自由な人生をどれだけ自由に生きたか?という証としての表明なのだ。

話は変わるが、最近ふと思いついたことを備忘録として紙切れにメモしたことを記しておきたい。

「自殺とは、大脳新皮質の発達と形成によって、人類史的発展の中で起こった自滅的行為である。

その根本原因は、自己意識の覚醒と意識の混乱による苦悩から逃避法として選択されたものである。

自己意識の目覚めは、人類の文化的創造性に大きく寄与したものであるが、同時に破壊する力、衝動も増大させた。この相反するように見える二つのベクトルは、根源的には一つである。

実存とは、この二つのベクトルの生への衝動と死への衝動が相拮抗するバランスの中の世界内存在としてあるわけだ。その意味で存在とは、力であり、エネルギーそのもの、塊りそのものなのである。

つまり、人生とは『死すべきか?』、『生きるべきか?』という二者択一ではなく、宇宙という無限大の力が、時と場所を選び、限定的に噴出したものなのである。

それは、本来個人の意思を超越したものであり、宇宙的リズム、関係性の中でコントロールされるものであろう。」
                             (2018.07.25記)

重いテーマだが、その意味で我々は、いつも謙虚でありたいものだ。

その後の「アンタニアワカルメ」(3)

11月28日(火)午後1時より快晴の中、新生「アンタニアワカルメ」の除幕式が相模原市県立弥栄高校で開催され、来賓として家内と参加した。

去る6月末、神奈川県教育長と教育支援長が作品の管理不行き届きのお詫びということで、拙宅に謝罪に訪れてより5ヶ月。これで、私の作品に対する対応には、一応の決着がついたことになる。

これまで、神奈教との数度の協議、現地視察、現場責任者とのかなり密なやり取りをしながら、回収修復をまかされてこの日を迎えたわけであるが、その対応には、それなりの満足を感じている。
ただ、何分にも公共的な処理をしないといけないという関係から、やたらと遠回りで書類の提出が多いなという印象も否めなかった。この辺のところは、公的助成を受ける時と同様で、実制作に専念する者としては、時間も取られてかなり負担を感じてしまうところなのである。
もっとも、アートプロジェクトの一つととらえれば、話は別なのであるが、、、。


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ともあれ、今回の事は全く予期していなかった事件(私にとっては)ではあったが、当事者それぞれが、一応の納得のいく着地点に到達できたことは喜ばしい。また以前とは異なり、日常的に作品と接する人々が、美術を志す高校生というのも良いものだと思った。なぜなら、それは式典に参加してくれた学生たちの目が、とても澄んでいたからだ。

とにかく、今回の事が、今後も起こりうるであろうパブリックコレクションの問題解決の良い事例になる事とを願いつつ、私たちは会場を後にした。