「No」否定の論理ーマンネリズムを乗り越えるために

イメージ 1

思想であれ、革命であれ、新しいムーブメントというのは、前に立ちはだかる既成の価値観・ビジョンの否定から始まる。

当然のことながら、人類の根源的思想といえる宗教も例外ではない。むしろ最も先鋭的に現象する分野がこの世界であろう。

例えば、孔子が体系化した儒教についても従前の先祖崇拝的呪術性の強い原始儒教の疑問否定から始まり、ゴーダマ・ブッダの仏教にしても、それまでのバラモン教の批判者として出現し、受難の歴史の中でその真理が世間に受け入れられていくという経過であった。キリスト教、イスラム教もしかりである。

これは、もはや否定(No)することの真理を表明している。このようにいつの時代も既成の価値観を乗り越えるために賢人聖人は、いばらの道を歩かねばならない。スケールは小さくとも、真の芸術家も同様であろう。

ただし、気を付けなければならないことがある。それが、否定(No)のための否定(No)であってはならないということ..。

否定は、負の力として、強力な毒気をもっている。否定の暴走は、アナーキズムを呼び起こし、人々の心に暗黒を作り出す。

はじめは、腐り切った体制や、マンネリズムを打破する力として作用するが、破壊する対象を見失ったとき、その刃は、自身へとふりかかる。

良きにつけ悪きにつけ、どの道苦難は、免れない。その時、否定を振りかざす主体(私)に真実があるかどうかが重要だ。

直感的な単なる感情だけでは、その自他への破壊力に耐えることができない。ここに理知的な理念(真理)・信条というものが付随して、初めて、否定の力は、改革の力となりうる。


美術(文学)の歴史でいえば、近代における、否定のグローバルな運動であったダダイズムを例に見れば、明瞭である。

1917年、スイスのチューリッヒを舞台に起こった西欧の若き文化人によって引き起こされた運動は、人類最初の世界大戦という近代西洋文明の破綻の中から生まれ出たものである。

世界の知識人は、時代精神として、この運動に大きく共感、刺激され、瞬く間に世界に拡散していったのである。

しかし、その運動は、数年足らずの短命なものであった。なぜなら、その思想となるコア(核)が、否定以外の何物も認めていなかったからだ、ムーブメントの思想としての核にするにはあまりにアナーキー(虚無)であった。

その後に続く運動にも、やむなくその理念を修正しながら、その毒気を弱めて次なるムーブメントに移行していくのが常であった。シュールレアリズム、ロシアアバンギャルド、バウハウスしかり、日本においては、大正アバンギャルドなどが良い例だ。

その後も大戦の舞台、欧州では、混乱か続き、アジアも巻き込みながら第二次大戦となるわけだ。

この間、政治的経済的に無傷であったアメリカには、多数の優れた欧州文化人が亡命し、精神の奥底にダダイスチックなものをかかえながら、文化的に発展途上国であった米国の青年芸術家に大きな影響を与えたのは言うまでもないだろう。

その後、亡命作家やその影響下にあった青年芸術家たちの活躍は、交通網・情報網の発達とともグローバルに展開し、それが現在の現代美術の起源がアメリカ由来のものなっている理由であろう。

その後も世界は、様々な価値観のもとに、さまざまな試みをしてきたわけだが、そのたびに、真剣なNOが叫ばれ、時に血を流して、旧体制と入れ替わってきたのである。

それは、生命の新陳代謝(メタボリズム)同様、人類が生きながらえていくうえで受け入れなければならない宿命でもある。

同様に美術の歴史もダダイズムに見るように、どのように新しいビジョンであっても、それが、考え抜かれ、実践に裏打ちされたものでない限り社会の反発から受容へと移行したときに幸福な瞬間を持続することは、甚だ難しい。

作家個人においても、このような精神的メタボリズムが、同様に繰り返される。

私自身においても、遅咲きではあったが、このような経験が何度かある。

決定的であったのは二十代後半、基本的技術を会得して、自在な表現力を身に着け、社会的にそれなりの評価が付いて、ある種の絶頂感にあった。

しかし、多くは語れないが、長年信頼していた友人の自死をきっかけに、人生のビジョンは、大きく反転した。

人生の不条理という現実を前にして、私には、それに応えるべき何物もないことをいやというほど思い知らされた。

その後も、どうにもならない無力感の中で、既成の彫刻観を引きずりながら、得体のしれない不安の中で悶々としていた。

その様なとき、ふとした一冊の本からダダの思想を知り、NY経由の現代美術を知った。

それは、私の打ちひしがれたひ弱な近代思想といえるものを打ち壊すのに十分な力となった。

私は、そのムーブメントの奥底にある荒々しい感情・精神を即座に感じ取った。それは、八方塞がりになっていた私の精神に大きなメッセージとなって沁み込んできた。そうだ!すべてに「NO」と言おう!そこから新しい全てが始まる!

破壊と創造。そのために自身の信条としてどのような誤解、批判も恐れず、ただPower(力、Passion(情熱),Peicunce(忍耐)の3Pを掲げて一点突破だ!

このようにして、80年代後半(1989年最初の渡米)から現在に至るまで一貫した否定の精神で彫刻を作り、メッセージを込めて90年代半ばに様々なNO(農、能、脳)としてNO-MENシリーズを展開しているわけである。TAUE PROJECT, Z-PROJECT, ドローイングBrain series、しかりである。

しかし、それが、社会に十分受け入れられて来たかというとまだ、NOと言わざるをえないだろう。

だがそれは、私自身に今後も忍耐強い戦いを続けさせる大きなモチュベーションとなっている。

次の時代の大きな楯となるために、、、。

         2019年6月15日(雨)、66年前、初めてこの世の光を浴びた日に記す。



備忘録「新めて自然派宣言」2014.12.06

イメージ 1

 さて、梅雨とはいえ今年の雨季は、どこか5月の新緑のさわやかさが残っている感じがする、、、。

過日、書類を整理していたら走り書きのメモ的一文が出てきて、処分するには、どうかというほどに、今の心境を表明しているものなので、ここに記録しておきたい


新めて自然派宣言
(ナチュラリズム・マニュフェスト)   2014.12.06

私は、自然を最大限尊重する。そして、私が生み出す作品は、内なる自然の律動との共作であり、不二のものである。

あえて創り出すとは言わない。所詮、不完全な人間が意識下で、作り出すものには限界があり、底の浅いものである。

私は、自然と感応し一体となろうとするベクトルの中に、また一体となった時に生まれ出るものこそが、個人の限界を越えて、万人が共有し、宇宙へと響き渡る表現、作物となるであろうことを信じている。

それは、「創造」などという高飛車な意識から生み出されるものではなく、百姓が自然の力を借りて、無理なく農作物を産み出すようなものであり、無作な繁殖活動に似たものである。

私は日々、己の生の記録を目と手の感覚を総動員して、出産することを日課としている。あえて制作とは言わない。なぜなら、それは生理的欲求でもあるし、本能に近いものだからだ。

表現のメディアは、物自体のこともあるし、時に行為(アクション)自体のこともある。いずれにせよそれらは、すべて同じベクトルの中にある。

<閑話休題>
 
21世紀になって間もなく、従来の「農」への考察をより深く確かなものとするために、独学ではあるが、農耕の実践を始めた。

最初は、最小限の土地があればできる日本ミツバチの養蜂から始め、その後、少々の畑地を借りて、化学肥料や農薬を一切使わない自然農法による、果樹と野菜を作り始めた。

そして改めて実感したことは、直に大地と触れ合う農業こそ、自然と人間が共生、いや、人間自身が生き延びる唯一方法であることを実感した。

そこで、困難は承知で、あえて言いたい。「人間よ!大地と共に生きよ!シンプルに生きよ!」と。

複雑に組織化された現代社会にあって、個人が大地と断絶した生活を送ることは、物質的にも精神的に危機的状況になることは必然であろう。

シンプルな自給自足的生活こそが、全体的に生きる唯一の道であり、人類救済の道である。

「つぶやき」のオリジナリティ&リアリティ

イメージ 1








イメージ 2

しばらくご無沙汰してしまった。あっという間に最後のつぶやき(ブログ)から、1年近くがたってしまったわけだが、これも私の生来のナマケモノとしての性であるから止むを得ない。
ところで、少々癪に障ることは、SNSのツイッターなどをで「つぶやき」という言葉が、ネット社会になって、手あかのついた言葉として流布してしまっているわけだが、私などは、自慢ではないが(いや、自慢だな、、、。)30年近く前から、己の心情を語り明かす言葉として用いていた言葉なのだ。いまでは、当たり前のように使われているが、当時は、パソコンなど庶民には高根の花で、とてもそのような状況ではなかった。ただ私の場合は、新人気鋭の彫刻家として少々光が当たっていて、神奈川県の地方紙(経済新聞)から声がかかって、月一のエッセイを書くことになり、10ヶ月間、思うままに呟いたわけである。
元々、受けを狙って書いているわけでもないから、自由で気ままである。そう結局私は、自由ということがテーマで、これは作品を作る時の基本的姿勢と全く同じなのである。つまり不自由な人生をどれだけ自由に生きたか?という証としての表明なのだ。

話は変わるが、最近ふと思いついたことを備忘録として紙切れにメモしたことを記しておきたい。

「自殺とは、大脳新皮質の発達と形成によって、人類史的発展の中で起こった自滅的行為である。

その根本原因は、自己意識の覚醒と意識の混乱による苦悩から逃避法として選択されたものである。

自己意識の目覚めは、人類の文化的創造性に大きく寄与したものであるが、同時に破壊する力、衝動も増大させた。この相反するように見える二つのベクトルは、根源的には一つである。

実存とは、この二つのベクトルの生への衝動と死への衝動が相拮抗するバランスの中の世界内存在としてあるわけだ。その意味で存在とは、力であり、エネルギーそのもの、塊りそのものなのである。

つまり、人生とは『死すべきか?』、『生きるべきか?』という二者択一ではなく、宇宙という無限大の力が、時と場所を選び、限定的に噴出したものなのである。

それは、本来個人の意思を超越したものであり、宇宙的リズム、関係性の中でコントロールされるものであろう。」
                             (2018.07.25記)

重いテーマだが、その意味で我々は、いつも謙虚でありたいものだ。