備忘録「新めて自然派宣言」2014.12.06

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 さて、梅雨とはいえ今年の雨季は、どこか5月の新緑のさわやかさが残っている感じがする、、、。

過日、書類を整理していたら走り書きのメモ的一文が出てきて、処分するには、どうかというほどに、今の心境を表明しているものなので、ここに記録しておきたい


新めて自然派宣言
(ナチュラリズム・マニュフェスト)   2014.12.06

私は、自然を最大限尊重する。そして、私が生み出す作品は、内なる自然の律動との共作であり、不二のものである。

あえて創り出すとは言わない。所詮、不完全な人間が意識下で、作り出すものには限界があり、底の浅いものである。

私は、自然と感応し一体となろうとするベクトルの中に、また一体となった時に生まれ出るものこそが、個人の限界を越えて、万人が共有し、宇宙へと響き渡る表現、作物となるであろうことを信じている。

それは、「創造」などという高飛車な意識から生み出されるものではなく、百姓が自然の力を借りて、無理なく農作物を産み出すようなものであり、無作な繁殖活動に似たものである。

私は日々、己の生の記録を目と手の感覚を総動員して、出産することを日課としている。あえて制作とは言わない。なぜなら、それは生理的欲求でもあるし、本能に近いものだからだ。

表現のメディアは、物自体のこともあるし、時に行為(アクション)自体のこともある。いずれにせよそれらは、すべて同じベクトルの中にある。

<閑話休題>
 
21世紀になって間もなく、従来の「農」への考察をより深く確かなものとするために、独学ではあるが、農耕の実践を始めた。

最初は、最小限の土地があればできる日本ミツバチの養蜂から始め、その後、少々の畑地を借りて、化学肥料や農薬を一切使わない自然農法による、果樹と野菜を作り始めた。

そして改めて実感したことは、直に大地と触れ合う農業こそ、自然と人間が共生、いや、人間自身が生き延びる唯一方法であることを実感した。

そこで、困難は承知で、あえて言いたい。「人間よ!大地と共に生きよ!シンプルに生きよ!」と。

複雑に組織化された現代社会にあって、個人が大地と断絶した生活を送ることは、物質的にも精神的に危機的状況になることは必然であろう。

シンプルな自給自足的生活こそが、全体的に生きる唯一の道であり、人類救済の道である。


「つぶやき」のオリジナリティ&リアリティ

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しばらくご無沙汰してしまった。あっという間に最後のつぶやき(ブログ)から、1年近くがたってしまったわけだが、これも私の生来のナマケモノとしての性であるから止むを得ない。
ところで、少々癪に障ることは、SNSのツイッターなどをで「つぶやき」という言葉が、ネット社会になって、手あかのついた言葉として流布してしまっているわけだが、私などは、自慢ではないが(いや、自慢だな、、、。)30年近く前から、己の心情を語り明かす言葉として用いていた言葉なのだ。いまでは、当たり前のように使われているが、当時は、パソコンなど庶民には高根の花で、とてもそのような状況ではなかった。ただ私の場合は、新人気鋭の彫刻家として少々光が当たっていて、神奈川県の地方紙(経済新聞)から声がかかって、月一のエッセイを書くことになり、10ヶ月間、思うままに呟いたわけである。
元々、受けを狙って書いているわけでもないから、自由で気ままである。そう結局私は、自由ということがテーマで、これは作品を作る時の基本的姿勢と全く同じなのである。つまり不自由な人生をどれだけ自由に生きたか?という証としての表明なのだ。

話は変わるが、最近ふと思いついたことを備忘録として紙切れにメモしたことを記しておきたい。

「自殺とは、大脳新皮質の発達と形成によって、人類史的発展の中で起こった自滅的行為である。

その根本原因は、自己意識の覚醒と意識の混乱による苦悩から逃避法として選択されたものである。

自己意識の目覚めは、人類の文化的創造性に大きく寄与したものであるが、同時に破壊する力、衝動も増大させた。この相反するように見える二つのベクトルは、根源的には一つである。

実存とは、この二つのベクトルの生への衝動と死への衝動が相拮抗するバランスの中の世界内存在としてあるわけだ。その意味で存在とは、力であり、エネルギーそのもの、塊りそのものなのである。

つまり、人生とは『死すべきか?』、『生きるべきか?』という二者択一ではなく、宇宙という無限大の力が、時と場所を選び、限定的に噴出したものなのである。

それは、本来個人の意思を超越したものであり、宇宙的リズム、関係性の中でコントロールされるものであろう。」
                             (2018.07.25記)

重いテーマだが、その意味で我々は、いつも謙虚でありたいものだ。
posted by 雪山童子 at 19:29Comment(0)日記

その後の「アンタニアワカルメ」(3)

11月28日(火)午後1時より快晴の中、新生「アンタニアワカルメ」の除幕式が相模原市県立弥栄高校で開催され、来賓として家内と参加した。

去る6月末、神奈川県教育長と教育支援長が作品の管理不行き届きのお詫びということで、拙宅に謝罪に訪れてより5ヶ月。これで、私の作品に対する対応には、一応の決着がついたことになる。

これまで、神奈教との数度の協議、現地視察、現場責任者とのかなり密なやり取りをしながら、回収修復をまかされてこの日を迎えたわけであるが、その対応には、それなりの満足を感じている。
ただ、何分にも公共的な処理をしないといけないという関係から、やたらと遠回りで書類の提出が多いなという印象も否めなかった。この辺のところは、公的助成を受ける時と同様で、実制作に専念する者としては、時間も取られてかなり負担を感じてしまうところなのである。
もっとも、アートプロジェクトの一つととらえれば、話は別なのであるが、、、。


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ともあれ、今回の事は全く予期していなかった事件(私にとっては)ではあったが、当事者それぞれが、一応の納得のいく着地点に到達できたことは喜ばしい。また以前とは異なり、日常的に作品と接する人々が、美術を志す高校生というのも良いものだと思った。なぜなら、それは式典に参加してくれた学生たちの目が、とても澄んでいたからだ。

とにかく、今回の事が、今後も起こりうるであろうパブリックコレクションの問題解決の良い事例になる事とを願いつつ、私たちは会場を後にした。
posted by 雪山童子 at 16:10Comment(0)日記