昨日午後、神奈川県教育委員会教育長K氏と教育支援部長E氏が、一昨日(6/28付け)神奈川新聞に掲載された棟方志功版画コピーすり替え事件に関するその後の経過報告関連記事の件で拙宅まで謝罪に訪れた。
作家にとって作品は、出来不出来があるにせよ我が子と同じようなものである。当時買い上げ賞ということで、海辺の三浦臨海青少年センター(現・三浦ふれあいの村)内に設置が決まり(1989当時)環境面などで、その後が気にならなかったわけではないが、嫁ぎ先から何の便りもないことだし、つつがなく過ごしているものと思っていた。しかし素材が鉄ということもあり、経年劣化と塩害による激しい腐食で破損という経過と相成ったようだ。
E氏によれば決定的破損時期は平成22年(2010年)で、鋳鉄製の本体を吊り下げていた銑鉄製の支柱が腐食破損して本体が落下したとのこと。本来であればこの時点で作者に連絡告知すべきであったわけだが、それが成されずに今回の一連の問題が発覚するまで伸びてしまったことに対する謝罪をしたいとのことであった。
作品は1989年、第25回を記念する神奈川県展(全国公募)大賞受賞作品で、コンセプトは、「あらゆる呪縛からの解放。そして自由」ということであったと思う。
青天の霹靂ではあるが、ひとまずは先方の誠実な?謝罪を受け入れ、今後の対応を考えねばならない。
今回の謝罪報告の中でK教育長より、今後の対応について簡単な素案が提示されたので記しておきたい。
つまり作品移動はせず、設置現場である三浦ふれあいの村の設置エリヤに安全対策を施し、作品変遷のいきさつなどの説明などを添えて、継続して子供たちの教育資料としてはどうかとの提案である。
これに対し、私の方からは今回の問題を平面的にとらえるのではなく、より立体的に「不幸中の幸い」と捉えて更に発展的なものとしたい旨を伝える。
設置当時の時代状況(バブル後期)とその後を鑑みれば、操り人形を支えていた鉄製支柱が激烈に腐食破損してしまったことは、バブル時代を席巻していた価値観(支柱)崩壊というその後の世相との相似形が見えてくるし、一つの時代の終焉の象徴と捉えることもできるのではないか。
幸い人形本体(鋳鉄製)は、まだ無傷のようなのでダメージの少ない新たな環境(例・川崎市生田緑地公園。岡本太郎美術館、日本民家園などがある。)と新たな発想による支柱再制作をしてはどうか?
つまり、未来志向で子供をメインにより多くのひとびとに鑑賞してらえることが希望である旨を提案したのである。(まずは、近々に現地調査が必要であろう。)
ともあれ今回の問題が、日本の中世から近現代にわたって最もドラスチックに価値観の変遷を先導し、近代化の先進地であった神奈川県から起こったということに私は注目したいのだ。
古代貴族社会から中世武家社会(鎌倉幕府)への権力体制の移動やペリーの黒船は言うに及ばず、岡倉天心が生まれ、その天心を偲んでタゴールが初来日し長期滞在した地。そして戦後は、戦後文化美術復興の象徴ともいえる鎌倉近代美術館の誕生など数え上げれば限がないほどだ。
今後展開に多少なりとも期待してしまうのは、楽観過ぎるであろうか。