そして創造と破壊(3)

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-前回のつづき-

日々精進するということは、絶えず己を切り拓くということであり、世界に向かって命を開き切ることである。

そのアクションの連続の中にこそ、魔性からの解放があると私は信じている。

これは、けして難しいことではない。誰でも容易にできる事だ。

大げさなもので無くていい。ささやかで結構!

その積み重ねこそが重要である。

ところで、老婆心ではあるが、ここで読者の誤解をまねかないようにするために、魔性についての補足をしておかねばならない。なぜなら、モダンにおけるアートの創造性というものには、少なからずデモニッシュ(魔術的)という概念が大きく許容され、アートを魅惑する力として、その価値の判断基準とさえなるからだ。

その力の作用とは、驚き、感嘆、凄み、痛ましさ、など負の感情を含む人間存在を深く揺さぶる力であり、エロス(生)のみの陽性ではなく、タナトス(死)としての陰性の真実を合わせ持つ人間存在(実存)のリアリティーのことである。

それは、実存の暗き淵から、一条の光明を見出そうとする人間の究極の感情であり、英知の結晶(愛)といえるものでもあろう。

それに対して、ここでいう魔性とは、わかりやすく言えば、他者を許容しない、自己に囚われた感情であり、暗きから暗きへ進む、破壊のための感情・誘惑といえるものだ。

タゴールは言う。

目標はじつは精神の内界にあるのである。そこでわれわれが深く憧れるものは、成就の上に立脚する平和である。われわれはそこで神と出会う。神とは世界における絶えず動いている力である。神とは魂において絶えず休らいでいる愛である。
~われわれは、力の領域においては、増大することによって成長する。しかし愛の領域においては、放棄することによって成長する。

(タゴール著作集第7巻-瞑想録243p)
posted by 雪山童子 at 02:12Comment(0)日記

そして創造と破壊(2)

さて、過日の続きだが、仏性というものが限り無く創造的で開かれた心の状態と定義すれば、それは愛他的なものとなるであろう。

それに対して、魔性は、個に囚われ、閉じた心情に縛られ、不信や猜疑心、憎しみに冷たく焼かれた心から滲み出てくるものに違いない。だから仏道では、最初に煩悩からの解脱、個に囚われない事を説くのである。

しかし、この両極を日々往復しているというのが、偽らざる我々の日常ではないだろうか。要は、どちらのベクトルに己のスタンスを置くかということだろう。

私の願いは、前者にあるのは言うまでもないのだが、後者の誘惑も侮れないのである。その為にも日々の止観、制作が欠かせないものとなる。つまり精進を忘れないということだ。

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posted by 雪山童子 at 10:07Comment(0)日記