
-前回のつづき-
日々精進するということは、絶えず己を切り拓くということであり、世界に向かって命を開き切ることである。
そのアクションの連続の中にこそ、魔性からの解放があると私は信じている。
これは、けして難しいことではない。誰でも容易にできる事だ。
大げさなもので無くていい。ささやかで結構!
その積み重ねこそが重要である。
ところで、老婆心ではあるが、ここで読者の誤解をまねかないようにするために、魔性についての補足をしておかねばならない。なぜなら、モダンにおけるアートの創造性というものには、少なからずデモニッシュ(魔術的)という概念が大きく許容され、アートを魅惑する力として、その価値の判断基準とさえなるからだ。
その力の作用とは、驚き、感嘆、凄み、痛ましさ、など負の感情を含む人間存在を深く揺さぶる力であり、エロス(生)のみの陽性ではなく、タナトス(死)としての陰性の真実を合わせ持つ人間存在(実存)のリアリティーのことである。
それは、実存の暗き淵から、一条の光明を見出そうとする人間の究極の感情であり、英知の結晶(愛)といえるものでもあろう。
それに対して、ここでいう魔性とは、わかりやすく言えば、他者を許容しない、自己に囚われた感情であり、暗きから暗きへ進む、破壊のための感情・誘惑といえるものだ。
タゴールは言う。
目標はじつは精神の内界にあるのである。そこでわれわれが深く憧れるものは、成就の上に立脚する平和である。われわれはそこで神と出会う。神とは世界における絶えず動いている力である。神とは魂において絶えず休らいでいる愛である。
~われわれは、力の領域においては、増大することによって成長する。しかし愛の領域においては、放棄することによって成長する。
(タゴール著作集第7巻-瞑想録243p)