つぶやき20170124:芸術家とは?

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<私の芸術家像>

芸術の道に精進する者にとって、その道で生み出された作品が金銭という代価に変えることができても、できなくても、その者の精神の信ずるところから生まれ出たものは、芸術であり、その者は芸術家である。

例えば、西洋では誰でも知っているであろう天才レオナルドやミケランジェロは、その才能で身を立てることができた。では、バン・ゴッホやモジリアニはどうであったか?二人とも情熱的に生きたが生活困窮者であった。存知のように、生前は作品もほとんどうれなかった。しかし、芸術で身を立てることは出来なかったが、その生き様は悲劇の天才芸術家として後の芸術家や美術を愛好する多くの人々に、深い感銘を与え続けている。
上記4名は、私が芸術の道を志す動機となった人々でもある。

日本ではどうか? 日本には芸術家という概念が明治以降の近代の所産であるので、そのままイコールではないのだが、一応、中世の仏師運慶・快慶や近世の絵師宗達・光悦を例にとれば、彼らは、その道で身を立てることができた。しかし近現代の苦難の画家として名画を残した佐伯祐三や田中一村の境遇を思うとやり切れない憐憫を感じてしまうのである。

このような芸術家のおかれた境遇が時代によって差異が生じてしまったのには、分析すれば、それなりの理由がある。それは、近代以後の思想や社会の制度の中に最初から解決できていない矛盾があるからなのだ。つまり、象徴的に言えば18世紀末のフランス革命以後の個人の在り方と社会の在り方が洋の東西を問わず、大きく変容してしまったということだ。どこまでも自由を求める近代的自我の目覚めは、勢い感性の優れた芸術家ほど自己中心的な生き方にシフトしてしまい、公的な社会との関係性を築けないまま流され自滅してしまうということになりかねない。一方公としての近現代社会は古代・中世社会にあった絶対的権力というものが瓦解して、文化をパトロネージする存在やシステムが壊れてしまっているので、既成の枠に収まらない芸術家に対して、かつての度量のある擁護ができなくなってしまったというのが真相なのだろう。
以上のことについては、まだまだ粗い考察に過ぎないが、自分自身の問題でもあるし、誰かの役に立つこともあるかもしれない。継続して考えて行きたいテーマである。

ともあれ、現代を生きる芸術家は、社会に過度の期待するのではなく、自らの知恵と力と情熱で、忍耐強く社会に向かって発信し、関係性を構築し、変容させていく。それぐらいのパワーを持ちたいものである。

posted by 雪山童子 at 00:25Comment(0)日記