
ちょうど一年前の今日、母と今世の別れをして、一年がたつわけだが、今もその愛を感じているというのは、感傷的すぎるであろうか?
ともあれ、今は少し冷静な気持ちになって過去と向き合える気分になっているのである。そんな時、昨晩ふと書棚に目をやったら、田植プロジェクトを始める動機を綴った一文に目が止まった。「”現代の美術界についての一考察”1992.2」とある。ちょうど20年前の文章で、やや声高で稚拙なマニフェストという感を免れないが、今回はこの一文をここにきちんと清書しておきたいと思う。このような思いに至った動機は、植木雅俊著「仏教学者 中村元」を読んだせいもあるかもしれないが、前々からため込んでいた他愛のない備忘録をキチンと記録しておきたいという思いがあったにも関わらず、さぼっていたというのが正しいだろう。今回そのレージーな性格をこの本が鼓舞してくれたと言う訳だ。
「近代以後、現代までの美術の世界は、社会の現状にあまり関心を払ってこなかった。あくまで個を主体とする世界だけに注意を払い、政治的、社会的問題には目を向けようとはして来なかった。(それは、古の祭祀や宗教的なものの衰弱と軌を一にしている)特に日本ではこの傾向が強い。
表現の世界が社会の安定、平和、人権の尊重という基盤があってこそ、成り立っているものなのに個の殻の中に閉じこもって夢想や観念に終始する者があまりに多い。
よくも毎日、激流ともいえる情報が流入してくるというのに、やれ色彩がどうだ、形がどうだ、空間がどうだ。と言うだけで終わってよいはずがない。少なくとも私はそうありたくない。声をあげて社会の真の現実、構造実態を身をもって告発し、何らかの現状打破への動機を作りたいと思う。
また、美術(アート)を受け入れるシステムの側にも問題はある。それは多分に営利と関係していて、この国の美術産業、企業のPR事業であるメセナにしても、社会的なこと、政治的なことには弱腰ですぐダンマリを決め込んだり、無視、毛嫌いする。アンガジュマンという言葉があるが、今こそ多くの知識人と称される人々は具体的に動くべきなのだ。単なる観念だけの思想家や評論するだけの批評家では、もはやこの国の現状を好転させる力とはなり得ない。
今最も大切なことは、自律した精神が社会の現状と切り結び、問題提起し、覚醒したポジティブな人間のネットワークを作ることなのだ。一人の人間の力は、微弱であるが目覚めたる一人と一人が出会い、共鳴し、より大きな波動となって現実の重い扉が開かれんことを願う。」
次回:田植プロジェクトの動機